11年間の闘いを終えて 【第118回】中原のり子さん(医師過労死裁判の原告) キャリアブレイン

11年間の闘いを終えて

【第118回】中原のり子さん(医師過労死裁判の原告)

最高裁による和解勧告を受け、勤務医の働き方をめぐる11年にわたる闘いが7月8日、決着した。

1999年8月16日、小児科医の中原利郎さん(享年44歳)が勤務先の病院の屋上から身を投げた。「不十分な人員と陳腐化した整備のもとで行われている、その名に値しない(その場しのぎの)救急・災害医療。この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」(原文のまま)との遺書を残しての自殺だった。以来、妻のり子さんは当直の過重性を認めるよう司法の場で訴え続けてきた。その結果、最高裁が示したのは「我が国におけるより良い医療を実現するとの観点から」という、異例とも言える和解勧告だった。

一方で、この11年の間にも着実に進んだ医療崩壊。長い年月にわたる法廷闘争を乗り越え大きな手応えを感じながらも、のり子さんの胸中は複雑だ。(田上優子)

―民事裁判と行政裁判、2つの裁判がようやく決着しました。

当たり前のことが認められるまでに11年もかかったのかというのが正直なところです。夫は労働災害で、仕事が原因で亡くなった―。それだけを訴えるのに11年かかったというのは、何か社会的なシステムに問題があったのではないかと思いますね。

■医師が仕事で死ぬのは「戦死」

夫が亡くなった11年前はひどい年でした。横浜市立大病院の患者取り違え事件、東京都立広尾病院では消毒剤を誤って点滴した事件があり、その後、杏林大病院で割りばし事件があり、とにかく医療者の失敗や事故だけが大きく叫ばれました。

その一方で同年1月、97年に女性の小児科医が千葉県内の大学病院の当直のベッドでくも膜下出血に倒れ、2週間後に亡くなって、労災が認められました。4月には山梨県甲府で、96年に亡くなった産婦人科医の労災認定が下りました。8月に主人が亡くなり、9月には都立府中病院の医師が自死しました。公平な目で医療界を見ると、医師側にも同情的なニュースがあってしかるべきなのに、患者の取り違えや、医師の怠慢、医療ミスで患者を死なせたという報道一色でしたね。

―世論が医者側に不利な状況ができてしまっていた。

マスコミがおおむねそういう流れだったのは確かです。夫の死でわたしが「絶対に労災申請する」と宣言した時も、周囲は止めました。親しくしていたのに離れていく人もいて、寂しい思いもしました。自分のやっていることは違っているのかなと。当時わたしを止めた人たちは、「仕事が原因で医者が死ぬのは仕方ない。戦死だ」と言いました。でもわたしは納得できなくて、1人でもやろうと決めました。

2001年の労災申請は1年半後に不支給決定を受けました。労基署からはその時、「中原先生には仕事以外に亡くなる理由はないかと思う。ただ、当直は労働時間とは認められていないので、8回の当直は長時間労働でもないし、過重労働とも認められない」と言われました。月に8回なら、週には2回です。朝8時に出勤して、帰って来るのが翌日の午後5時、6時になることも度々ありました。それだけ病院に缶詰になって、へとへとになって帰って来て、体を引きずるようにしていたのです。それなのに当直が労働時間じゃないと言う。それで、「月に何回当直をしたら労働時間として、過重労働として認められるのか」と聞いたら、首を横に振るだけで何も答えてくれなかったですね。
ならば、当直がどれだけ過酷かを証明しようと、1人の同僚の先生が「本当に大変だった」ということを何度も繰り返し訴えてくれました。それが裁判でも証言として採用されて、04年12月に起こした行政裁判で、3年後にようやく勝訴しました(07年3月14日、東京地裁判決)。
しかし民事判決は違いました。「そうは言っても、当直で患者が来ない時にはよく眠れるのだから。たまたま多く来る日があるかもしれないけど、ない日もあったのでは」という趣旨の判決でした。当直時の睡眠の質がどれだけ悪く、過重な負担になっているかがまるで分かってもらえていないのだと感じました。

東京高裁に控訴する際には、全国の小児科医に「当直アンケート」を取りました。記述式で、「月8回の当直をどう思うか」「小児科医の当直は、平均3.5回。中原は5.7回だった。それについてどう思うか」「あなた自身は当直によってどんな身体的な負荷があるか」などを聞きました。どれも切実な回答でした。小児科の先生たちが署名入り・記述式で、名前や病院名を明かした上で、一つずつ証言が積み重なった結果、高裁判決では当直や勤務の過重性と、労働と死亡との因果関係が認められました。

だけど病院側の自殺の“予見可能性”が認められなかった。夫は遅刻も欠勤もしたことがなく、泣き言も言わず、「人を増やしてくれ」と言ったことがなかった。だから「そこまで大変だと病院側が知り得なかった」という判決内容だったのです。

―活動の手応えが感じられるようになったのは、いつごろからですか。

07年ごろからでしょうか。現場から、勤務医の大変さを声に出して訴えようという動きが出てきました。勤務医メーンの全国医師連盟ができ、勤務医の労働環境の改善を目指す全国医師ユニオンがつくられ、自分の身は自分で守らないと駄目だということが理解されてきたのだと思います。現場からの声が少しずつ集まるようになって、その結果、労基署が病院に立ち入り調査したり、奈良の産婦人科医が時間外労働訴訟を起こしたり、少しずつ現場が動き出したことが、わたしにとっては大きな手応えでした。

■中原医師と、遺書『少子化と経営効率のはざまで』

―中原医師の働きぶりを間近で見ていて、どう感じましたか。

1996年3月までは、内科系の当直を月3、4回、プラス月2、3回の宅直でした。それが4月から急激に体力的にハードになり、疲れて不機嫌なことが多かったです。当直明けは、疲れて家族に当ることもありました。わたしは「そんなに仕事が原因でストレスがたまるのなら、辞めれば」と言ったこともあります。すると夫は「小児科は自分の天職だ」と言いました。「自分がいなくなると、小児科がなくなりかねない」と。もう、それ以上は言えなかったですね。彼がどれだけ一生懸命やっているか分かっていたから。

99年3月に月8回の当直をしたあたりから、疲労困憊という状態でしたね。亡くなる前の7月下旬には、「もう無理かも。病院を変わろうかな」と漏らしたこともありました。その後の1週間の休暇に話し合いをして、辞めるなら、早く上司に伝えるべきと言うと、夫は休暇が終わった後でと答えました。         

最後になった8月15日の晩は、当直ではありませんでしたが、夫は「これから当直だ」と言って出掛けました。夫はいつもサンダル履きで出掛けていたのですが、その日はなぜか、新品のポロシャツを引っ張り出してきて、いつも通りにサンダルを履きかけて、革靴に履き替えた。変だなと思いましたが、退職のあいさつに行くからきちんとしようという彼なりの礼儀だろうと送り出しました。そして出がけに「退職の話、ちゃんと言ってね」と念押しすると、「分かった、分かった」と答えました。それが最後のやりとりでした。

夫が亡くなった時には、確かに夫自身に対する怒りもありました。なぜ取り返しのつかない、とんでもないことをしてしまったのかと。でも、夫が自席に遺した遺書「少子化と経営効率のはざまで」を読んだ時、全く驚きませんでした。「医療費抑制政策」「小児科切り捨て」「不十分な人員」―。それは彼が、家族だんらんで楽しいことを話している時でさえも口癖のように言っていたこと、心配していたことでしたから。夫の遺書を読んで、悩みの種はこういうことだったのかと分かったのです。

■「犠牲的精神」の弊害

―過労も「うつ」も本人の自覚次第。自ら言い出しづらいのが実情では。

そうですね。医師たちは「犠牲的精神」「聖職者意識」などと言って我慢してきた。中には、「おれは寝ないでオペを6つやったんだ」とか、「自分は丸1か月家に帰っていない」と言って、後輩を鼓舞する医師もいたと聞きます。もしかすると、今でもそういう風潮が残っているかもしれませんね。

―医師たちが、自分の置かれた状況の異常さに気付かないといけない。

そうです。わたしにとってみれば一番の敵、ある意味一番手ごわいのは医師自身です。医療者が、「自分が頑張れば」という旧態依然とした考え方を打ち破らないと、絶対に変わらない。

―所属している組織に物を言うのは、特に医師の世界では難しいのでは。

きついと思います。特に勤務医の先生たちは雇われの身なので、なかなか言いづらいですよね。組織に対してだけでなく、患者への影響もあります。だから夫にとっては、仕事を辞めることは死ぬよりつらかったのでしょう。患者さんやほかのスタッフに迷惑を掛けるくらいなら、逆に死ぬ方が楽だったのかなと。

でも、現場から変わろうという気持ちがなければ、何も変わらない。遺族でも、ここまでできたのは、現場で経験された方、苦しんでいる方の支援があったからこそです。現場からの発言が一番有効ですが、わたしにできることがあれば、お手伝いしたいです。

■夢や希望が挫折しない現場に

―現場の医師たちにメッセージを。

現場で働いている人たちの夢や希望や誇りを持ち続けられる現場を守ってほしい。皆さん希望を持って、大変な勉強をして医学部に入り、国家試験に合格して、医師になったはずです。しかし、医師だって人間です。父親であり、母親であり、夫や妻なのだから、健康を害するような労働環境であってほしくない。

夫は幼いころから、小学校の先生か小児科医になることが夢でした。わたしは、彼が医学部の5年生の時に知り合い、彼が小児科医になるのは、当然のこととして受け止めていました。一から階段を上って行き、小児科医としてキャリアを積み、患者・家族から慕われ、自信を持っていた時期もありました。誇りもあった。でもそれを持ち続けることができなかった。そのモチベーションを維持できなかったのが、一番つらいことですよね。

―それでも、小児科医になるのは必然的だった。

そう、必然的に。でも、その必然という言葉を考えたときに、この小児科、医療界を取り巻く問題を世の中に伝えるために、死ぬ運命に彼が選ばれたのだとしたら…。あまりに悲しい結末です。

8月16日。間もなく11年目の命日を迎える。